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子どもと造形  児造研ニュース

平成17年6月発行  No.15

児童造形教育研究会機関紙

編集・発行人   長 尾 宏 一

事務局 〒111−0051 

東京都台東区 蔵前3−20−2クレパスビル内

п@03(3862)3937

「なぜ、学校で造形活動をするの?−みんなでつくることの意味―?をテーマに

児童造形教育研究会 会長  長尾 宏一

 「図工・美術教育は、社会教育で行えばよい。」「「図工は選択教育にすればよい。」といった考えが、一部で言われているようです。一方では、「図工・美術で手を働かせることは、脳の活性化を促す。また、心の安定につながると言う意味で重要な活動である。」と言う主張もあります。

 手を働かせてつくる、表現するという行為が、人間形成において重要な意味を持つことは確かですし、児童期において必要な学習活動であることは明らかです。しかし、手を働かせるのは、家庭でもできることです。それを学校で

取り組むのにはどんな意義があるのでしょうか。

 本研究会の運営委員月例会で、そんなことが話題になりました。「みんなが一緒になってつくるところに意味があるのではないか。一人ではなく、色々な子が関わり合って活動ができるのが学校である。」ということに考えが至りました。

 「みんなでつくる」とは、単に共同製作や造形遊びのことを言っているのではありません。そうでもあるのですが、一人一人が表現する活動であっても、教室で一緒に表現する ことに意義があるということなのです。

 例えば、発想の段階を考えてみて下さい。発想は個人がそれぞれに考えることが大切ですが、みんなで考えを話し合うことによって、自分一人では思いつかないアイデアに触れ、新たな発想を生み出すきっかけとなります。

 表す段階においては、材料の選び方、生かし方、表現方法の工夫など、周りの子の活動の良さに気づき、「それ、きれいだね。」「これ、どうやったの?やり方、教えて。」などと、鑑賞の能力を発揮して相互評価したり、自分の表現を広げ高める姿が見られます。

 鑑賞の活動においては、自分が気づかない作品のよさを他の児童の見方から学んだり、評価を受けて次への表現意欲が高まったりします。

 このように、みんなで造形活動することはとても大切なことであり、一人で表現する場合より様々な効果があるのではないでしょうか。

 今年の夏の研究集会では、図画工作科が学校教育に位置付けられている意味を問い直し、これからの未来を生きる子どもたちの力を育む造形教育のあり方を考えて見たいと思います。

ひとりでかくこと、みんなでかくこと

石賀 直之

 画工作の授業で「教室から出て外で自分のかきたいところを見つけて絵をかこう。」と投げかけてみると子どもたちは喜んで外に飛び出します。「いいなあ、外の空気に触れながらおおらかに絵をかくことを楽しんでほしいなあ、、。」などと思いますが、よくみると仲のよい子どもたち同士手に手をとってちょこんと並んでかいています。「なんだ、絵をかくことを楽しんでいるのではなくて単に友だち同士おしゃべりをしながら時間を共有したいだけじゃないか、まったくもっと純粋に友だちが何と言おうと自分のかきたいことを見つけてかいてほしいものだ、、。」と考えてしまいがちです。

でもどうでしょう。果たして本当にそうなのでしょうか?「かきたいところをみつけてかこう」などという子どもの思いを育てきれない投げかけに問題があるという議論はひとまず横に置いておき、友だちを一緒にかくということ自体に目を向けてみましょう。絵をかくというのは見てかくにしろ想像してかくにしろ自分の中にある、または自分の中にはいってきたことを平面に絵の具を使って表していく行為です。自分の中にあるもの、または自分の中に入ってくるものはなにもかく対象だけではないでしょう。その時の自分の気持ち、友だちとの何気ない会話、目線、笑顔、空気、風、におい、、、。

さまざまなものが自分の中にはいってきます。それが形になったのが絵なのです。そのような見方で絵を見てみるとこれまで息苦しく失敗だったと思える子どもたちの絵も優しい気持ちでみることができませんか?子どもにとって学校でかくことは単に想像したことやみてかくことだけでない意味があるはずです。ぜひ一緒に考えましょう。

「ああ!おもしろかった!」とにっこり

石田壽男

「どうして、学校で図工の勉強をするの?」という質問を子どもたちや先生方から受ける度にこのエピソードを思い出します。以前にも書いたか、お話した覚えがあり申し訳ないのですが、今回のテーマと関連がるので再度話させていただきます。

 3年生と「箱の中は○○な世界」という題材に取り組んだときのことです。空き箱の中にいろいろな材料を使って、表し方を工夫しながら自分の好きな世界を表そうという課題でした。一人の女の子が箱に顔を突っ込むようにして活動に熱中していました。授業の終わりが近づいたので、「そろそろ片付けにしようか。」と私が声をかけるとガバッと顔を上げてニッコリ笑って「ああ!おもしろかった!」とつぶやきました。その有り様があまりに可愛かったので思わず「どうして?」と聞きました。「だって、みんなとつくるの楽しいもん。」「あなたは周りの友だちとあんまり話しもしないで一生懸命つくっていたじゃない。」「でも、お家で一人でやるとこんなアイデア浮かばないもん。」「友だちのやっているものからヒントをもらうの?」「うん、それもあるけど、なんとなくやろうという気分になるの。だから工夫するのがおもしろくなるの。」

 このことから、私自身数多くのことを教えられました。文頭の疑問に全て答えるものではありませんが、大切なヒントと課題があるような気がします。子ども同士の関わりのこと、自由で創造的な雰囲気づくりのこと、活動の見取りと評価のこと、などなどです。

 最近地域の教育力を生かすということで子どものため土曜講座や造形塾などが盛んで学校の図工が軽んじられる傾向もあると聞きます。きちんとした絵づくり、ものづくりを目指すと称して、大人が全てを準備した子ども不在の活動と一線を画す必要があります。

「みんな」でつくることの意味

大 泉 義 一

学校教育が集団で行われる教育であることを前提にして「みんなでつくることの意味」について,造形活動の視点から考えてみると,以下の3つのポイントがあるように思うのですが,いかがでしょうか?

@ 相互啓発
 図工の授業では,共通課題としての題材が用意され,それに対して複数の子どもが,それぞれの思いを表現します。それは,一般的に言われる「大人としての美術」とは一線を画する性質をもっています。後者が,自分自身の内面を内省しながら,それを外界へとアウトプットしていく方向性を強くもつのに対して,前者では,外界(友だち・環境・教師・モノ…)と内面の相互作用で表現活動が成立する方向性が強いのです。そしてそこには,「みんなと一緒に活動する意味」としして,「相互啓発」の重要性が存在しているのではないでしょうか?

A 関係性の中の「個性」
 上述したことは,「個性」というものが,「自分の主張」のみをあらわすのではなく,「みんながいるから自分がいる」というような関係性の中に成立するものであることを示しているのではないでしょうか?

B 問題解決プロセスにおける他者
 造形活動は,材料と自分の思いとの間で行われる問題解決プロセスであると考えられます。そのプロセスでは,自分ひとりでは解決できない問題の糸口を,他者に求めることが必要になってきます。「他者から学ぶ」,このことも(表現と鑑賞を結ぶという点においても)大切なのではないでしょうか?
 …以上のことを,実技研修の題材研究を通して考えていくことができたらいいな,と思っています。

「まねる」、「まねぶ」、「まなぶ」

北川 智久

 「学ぶ」の語源は、「まねる」が「まねぶ」に転じ、さらに「学ぶ」に変化したものだと聞いたことがあります。学校で友だちといっしょに造形活動をするときには、教師が意図的に用意した鑑賞活動ばかりでなく、活動中に友だちどうしで見合う自然な鑑賞活動の中で「まねる」「まねぶ」「まなぶ」的なことが生じます。これをうまく生かすことは造形教育にとって大切な要素です。
 1年生に、初めて筆と絵の具を使わせたときのことです。40人の子どもに対し、10色×3皿=30皿の共同絵の具(ポスターカラー)だけを提供しました。皿には太筆が1本ずつさしてあります。「絵の具島があってね、山が噴火していろんな色が広がったんだ。人や動物はまだいなくて・・・」のような話をして、教師が直線や曲線を3・4本ほど抽象的にえがいて見せ、後は子どもたちの活動にゆだねました。赤い色を使いたい子は、赤い絵の具の皿を使っている友だちのそばで順番を待ちます。もっとたくさんの絵の具を用意してあげてもよいのですが、そこには教師のねらいがあります。「ぐるぐるってやるのおもしろいね」「てん、てん、ってやるのいいね」「線が重なるときれい」のように、相手の活動から学びがおこります。見られている方も得意げです。ますます工夫したくなります。工夫が工夫を呼び、クラス全体に学び合いがおこりました。活動をたのしめない子はありません。
では、できあがった作品はみな同じでしょうか。いいえ、部分的には似ていたり、筆運びが似ていたりしても、作品の印象はどれも個性的です。まねされたとおこる子はありません。「そうだね、よいもの、よいことだからまねされるんだもの。○○ちゃんの工夫は、たくさんの友だちに広がったね。」
 最後には、全員の絵を掲示して見合います。1年生ですから、難しいことは言えません。
「わあ、教室が絵の具島になっちゃった。」

エー!どうしてそうなるの!
中村 哲夫

 「クレヨン・パス」で描く内容、いろいろなものがありますね。そのいろいろがあるのに、体験したこと経験したことを絵に表すことのみ指導している方を多く目にしてきました。そして、「表現が面白くないから、水彩絵の具を使わせてみよう!」と、1年生から個人持ちの水彩絵の具を使わせる先生を見てきました。その先生から、絵の具の指導について教えてくださいと言われ「筆で描く前に、こんな楽しい絵の具を生かした表現があるんですよ。」と研修会をしました。その内容を、今回の研修会で伝えたいと思います。
 絵の具の指導に行く前に「クレヨン・パス」で、色について、形について、楽しく表現することを十分に味わわせておくことが必要です。必要なのに、何で指導しないのかな?
 3年生で、絵の具を使った遊びを指導しました。そこで、「エー!何でこうなるの?」という声を耳にしました。多くの児童が、知らなかったのです。絵の具を筆で使わせる前に、児童といろいろな遊び、表現を取り組んで見ませんか?きっと、図工が大好きになりますよ。児童がつまづくのが、「絵の具で描いたらにじんで、絵がきたなくなった!」「思った色がつくられないから、絵はきらい!」そんな児童をつくらないためにも、研修してみませんか?

学校教育を営む上で欠かせない活動
橋本光明

このテーマは、「学校の中での造形」あるいは「人づくりと造形」「子どもと造形」「個を生かす教育」「学カと造形」など広義で、本質的な課題を追求するものとしてとらえる必要があります。
 今教育界は、昨年暮れに発表された経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA)と国際数理教育動向調査(TIMSS)の結果で右往左往しています。すなわち我が国の子どもの学カが低下したことで動揺しているのです。その原因として5日制やゆとり教育、総合的な学習などがあげられてます。
 そして、国語や算数などの基礎教科の授業時間や内容の削減が主たる原因であるとする論が強まっています。先生方の多くは、その実情のもとで一層過密スケジュールになってきていることを感じられていることでしょう。
 最近教育学関係の先生や現場の先生方の、国際的に1位を認められたフインランド詣でが盛んになっています。そのフィンランドの教育は、基礎教育を基調としながらも「教えることから学ぶことへ」「子どもの必要に応じること」「国家の規制の縮減」等のもとで、家庭教育や読書の大切さ、芸術教育の重視等がバランスよく行なわれていると、帰国した同僚から聞きました。
 学校教育に造形活動が必要であるかを問う前に考えなければならないのは、学校教育とは何かということです。学校教育の特色は、各教科・領域やその他の教育活動がバランスよく組織的に営まれるところにあります。
 その営みのために教育課程の中に造形活動が幅広く取り入れられることで、表現欲求を充たすことから意思の決定や自分白身の存在を明確にするなどの重要な役割を果たすことができているのです。

互いに認め合うこととは…
濱田  浩

 人と人との関わりとは、いつも仲良くすることだけではない。ときには口論し、また殴り合いの喧嘩をすることも、人が成長するためには必要なことです。諍いの中で、「痛み」がわかり、相手に対する「思いやり」の気持ちも育まれていくものだと思います。
 このように学校で学ぶよさは、多くの子どもたちが互いに軋轢やいたわり合いの中で、それぞれが成長していくことではないかと思います。
 ただ、人は長所と欠点があります。また、人が創る作品も同じです。また、表現しようとする活動自体もそれぞれの個性がでて、様々な様相を呈します。まして、子どもの世界では、どうしても自分が中心となってしまい、他者を傷つけることも往々にあります。だからこそ、教師の子どもへの関わりの姿勢が大切になるのだと思います。
 授業等で、子どもに関わる際は、私は、いつも自分に言い聞かせることがあります。それは、三つの「み」です。すなわち、子どもの活動を「みつめる」、そして、よいところを「みつけ」、みなの前で「みとめてあげる」、この三つです。
 子どものよいところを「みつけ」「みとめる」姿勢は、自然と子どものなかに息づき育まれていくように感じます。
 また、作品ができたとき、すべての子どもに一言ずつ、自分が描いた(作った)思い入れや自慢したいところを発表させるようにしています。その際、聞き手の視点を教えるようにしています。それは、「友だちの作品のよいところを一つでも、二つでも見つけられる人は心が豊かになり、友だちの作品をみる目が育ってくるんだよ」と言い、欠点を探すのではなくよいところを暖かい目でみてあげる姿勢を育むことが、互いに認め合おうとする心を育んでいくものと思います。

「造形的なやりとり」と「教室」の価値
林 耕史

 教室は,子どもたちが集い活動する場です。これはどの学校でも共通な事実です。しかし,この当たり前の事実,「子どもたちの様々なベクトルが存在する空間」としての教室を意識して授業している先生は多くはいないと思います。子どもたちが教室に入ってくるのは当然…と,たかをくくっているからです。でも,ただ「子ども対教師」という教室の構造だけを考えて授業しようとしているのでは,学習活動は教師の側の力学だけで行われ,閉塞感を募らせていきます。
 「子どもたちの様々なベクトルが存在する空間」という意識をもって教室を眺めると,子どもたちの多様な動きが見えてきます。そのベクトルを生かす工夫をすると,教師中心だった学習活動が,子どもたち自身の力で,幅の広い多彩で豊かなものになっていきます。
 そもそも,教室は一人一人の子どもをブースで区切っているものではありません。そこには必然的に「関わり」が生まれます。それが双方向になったとき,その関わりは「やりとり」となって,より目的的になります。この力を造形学習の場面で有効に利用することで,子どもたち同士が刺激し合って,お互いの表現を豊かにしていくことができます。
 例えば,「面白い線を考え描いて楽しむ」といった題材では,個人で行うのではなく友達と対面して「線でやりとりし合う」という場を設定してみます。まず個人で発想したり試します。対面してやるうちに,線で応答するようにやりとりが始まります。友達の線を見て,「じゃあ僕は,こういう線を描く」というように,友達のベクトルを受けて,自分のベクトルで回答していくのです。こうしてできていく線の交信は,教師が介在して指導するのではなく,子どもたち自身がそれぞれを刺激し合っていくことで,友達同士,子どものなかから造形力が引き出されていくのです。
 こんな一例からもわかるように,孤立して学ぶのではなく,「教室」という空間を意識し,子どもたちのベクトルを生かしていくことで,子どもたちが自らを培っていくのです。学校で造形活動をするのは,造形的な創造力をつけるだけではありません。自分たちが自分たちを育てていく,そんな生きる力を培うためにも,意義と価値があるのです。

人が人らしく育つ
平田智久

 教師と子どもという関係は上から下へ…という時代があった。親と子の関係も同様。それが個性重視、主体性の尊重という名のもとに友達のような関係の時代になり、混沌としてきた。そして今、学力低下を理由に基礎学力を高めようと指導方法を変えようという動きもある。つまり基礎基本をしっかりと押さえようというのだろうか。目先のことをいくら論じても手段を変えても現実の姿はかわらない。人とは何か、人間らしさとは…といった角度からの考察と実践が行なえることの方が重要ではないか。
 算数、国語にも図工や体育にも共通していること…つまり「人間探求」の行為として重要な手段だということを忘れてはならない。答えがあっていることより、喜びや驚き、不思議との出会い…などが生きるエネルギーになる。達成感も重要だし失敗もエネルギーになる。そうした「生きる力」をもてる環境こそが教育目標だったのではないのか。
 その喜びや驚き、達成感も失敗も、すべては人間ひとり一人の内側にある。大人も子どもも同様である。
 人に言われて喜ぶのではなく、自分の内側の全身全霊で喜ぶことが基本となる。喜びだけでなく悲しみも悔しさも自分が〇〇したいと考えるからこそ、その心の動きが大きくなる。つまり成功も失敗も自分の心で決める。そして“好奇心”がなければ「〇〇したい」という意思も生まれない。
好奇心=興味関心は自己の内的な世界にある。子どもも大人も同様。その好奇心を刺激するものは身の周りにあるものの存在、人の存在に他ならない。没頭して向かい合えるものとの出会いや、お互いに刺激し合える人との関係こそ内的な世界を充実させてくれる。
 その好奇心を刺激できる環境づくりこそ今日的課題といえる。仲の良い友達と共有できる好奇心は充実感をより増大する。そうした体験は自と他双方の充実…大きく言えば社会性・人間関係の充実に他ならない。

「美術を専門としない人にこそ造形あそびを創造していく可能性が…」
堀井 武彦 

 表題の言葉は、あるシンポジウムのレセプションで、図工・美術教育の著名な先生とお話する機会があり、そこで感銘を受けた言葉である。一言一句正確な描写ではないが、お話しの要旨としては、次のようなエピソードが下敷きになっていた。
 ある小学校の総合の時間の映画づくりの実践を参観された時、「子どもたちも教師も、何かの枠に捉われることなく、一緒になって活動していたことに感動した。」つまり、これまで見てきた総合の実践の多くは、社会科であったり、理科であったり、教科エゴの片鱗が見え隠れし、指導者によって筋書きが準備されていたのに対して「映画づくりは、子どもも教師も素人。だから、話し合いや参加の姿勢がとてもニュートラルで自由であった。造形あそびもこうあってほしい。美術を専門とする人が指導すると、ともすれば現代美術なんかの表現様式を到達点とした誘導が見え隠れする。美術を専門としない人こそ、子どもたちと一緒になって美術の枠組みに捉われない活動をつくっていけたらいいですね。(要旨要約)」
 一生の中で、誰もが描いたり、つくったりしながら自分の想像の世界にどっぷりと身を浸すことができるのは、一生の中で学童期をおいて他にはないのではないかと確信するようになってきた。ましてや、同年齢の友だちと関わりながら、この豊かで尊い時間を全ての子どもたちが共有できる空間は、学校以外に考えられない。
 この理想を実現するのに最もふさわしい活動が「楽しい造形活動(造形あそび)」である。

 

「共同制作について」
宮坂元裕

自我に員覚める年齢あたりから共同制作は重要な意味を持ち始めます。特に現代においては重要です。
 NHKで放映しているプロジェクトXを見るたびに、図画工作の共同制作と同じではないかとしばしば思うことがあります。共同制作は、問題解決型が合っています。困ったことが起こったとき皆で知恵を絞って考えて解決策を見出だし解決していくなどです。図画工作では、少し難しい課題を投げかけ、それを5人ほどのグループで解決することは子供も先生も楽しいことです。
 毎年5年生になると、決った時期に全校生徒に見えるところで共同制作を行う学校を知っています。5年生になると、急に大人びてきます。それは、自分を客観的に見ることができるようになり、気に入らないことがあっても我慢できるようになるからです。この時期に、皆に見られながら共同制作を行うことは大変意味のあることです。自分のアイデアや技能を回りの人が認めてくれる。あるいは認めてくれない。自己主張する等の行為を通して、我慢すること、主張することを学習できるからです。そして最も良いことは皆で考える喜びを知ることだと思います。5年生というのが絶妙にいいのです。4年生は、5年生が共同制作するのを見ています。来牢はこうしょうと見ているのです。そして6年生は、昨年の経験を生かしてアドバイスしたり、手伝ってくれたりします。自ずから異学年交流ができるようになるのです。あの授業を見てから共同制作はなるべく択山の人が見ている所で、と思うようになりました低学年でも共同制作はできます。
 しかし真の共同制作は5年生ぐらいが面白いと私は思っています。


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